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おそらく、「シャチ継」について、知りたいという方がたなのだと思います。お役に立てばいいな、と思っていますが、一方で、少しばかり気になることもあります。そこで、その際、「気になること」もお読みいただければ幸いです。[2015.12.28 追記] [図版を大きいサイズに更新 9.45] 15年ほど前に「継手?仕口」の模型を大工さんにつくっていただいた。 すべてを4寸角の材(仕上りは3寸8分)でつくった実寸大模型です。 その中から、「シャチ(栓)継ぎ」をとりだして、作業(yè)工程の順を撮ったのが上の寫真。 部材に分解して15年ほど保存していたため、かなり狂っている。組んであればそんなことはありませんが、組んでゆく過程を説明するための模型ゆえ、部材のままの保管にするしかなかったのです。 材料にはかなりよいヒノキ材を使っていただいていますが、それでも長(zhǎng)年のうちには収縮が起きるのです。乾燥材は収縮しない、などということはないのです。 一番上の3枚組みの寫真は、橫材の取付く「柱の刻み」、橫材(「下木」と「上木」)、「シャチ栓」を撮ったもの。 「大方の構(gòu)造計(jì)算が得意の方」は、この柱を見ると(特に現(xiàn)場(chǎng)で見ると)、こんなに彫って、折れてしまうのではないか、と言います。 実際、「四方差」の場(chǎng)合には、柱の四隅の僅かな部分で上下がつながっているだけです(この模型は、「三方差」)。 しかし、いままで4寸角(仕上り3寸8分角)で計(jì)畫して、組んだ後、折れたことはありません。 ただし、工事中は、特に最近のようにクレーンを使う場(chǎng)合には、操作を誤って他材などにぶつけると折れることもあり、注意が必要です。もっとも、私は、そういう経験はありません。 一旦組み上がってしまえば、折れる心配はまったくないのですが、それでも「大方の構(gòu)造計(jì)算が得意の方」は「斷面欠損が多すぎる」といって心配します。 「シャチ栓」を打つことで、柱と橫材が密著してしまうことが想像できないのでしょう。こういうところにも、ものごとを機(jī)上だけで考え、架構(gòu)を「部材の足し算で考える思考」が垣間見えます。 上段の寫真のように、「下木」と「竿」には、「シャチ栓」を打つ「道」が彫られます。平行四辺形の形になっていて、幅が3分、長(zhǎng)さが1寸3分ほどです。 「シャチ栓」も面が平行四辺形で、側(cè)面は「楔(くさび)」型につくられていて、この場(chǎng)合は、厚さ3分、側(cè)面は、幅は上端が1寸5分、下端は1寸2分ほどです。 「シャチ栓」を「道」に打ち込むと、打ち込むにつれて、「道」の長(zhǎng)さ:大きさ(a~a、b~b)は「栓」に押されて広がります。 孔の長(zhǎng)さ:大きさが「広がる」ということは、「下木」側(cè)から見れば、「上木」が左に動(dòng)く、つまり、「上木」が「下木」側(cè)に「引き寄せられる」、ということです(「上木」側(cè)から見れば逆になりますが、両者が「引き寄せられる」ことには変りありません)。 これが「シャチ栓を打つ」ことのすばらしい効能で、これについては、以前に「近世の継手の様態(tài)」の説明のときにも觸れました。 おそらくこの効能の「発見」は、「楔」の効能の「発見」同様、余計(jì)にあけてしまった(あるいは、あいてしまった)孔に「埋木」をして修復(fù)することを通じて発見したのではないかと思います。 こういう発想は、機(jī)上では、絶対に生まれないでしょう?!杆激い膜鯔C(jī)」がないからです。 むしろ、機(jī)上で數(shù)値で考えたがる「科學(xué)者」は、発想自體を潰す方向に動(dòng)き、こんな小さな「シャチ栓」だと、力がかかったらぶっ潰れてしまう、などと言うでしょう。 こういう「現(xiàn)場(chǎng)の発想」を、「計(jì)算されていない」「直観にすぎない」「理論の裏付けがない」???と言って毛嫌いし、いい感じを持たないのが「科學(xué)的」を標(biāo)榜する「大方の構(gòu)造計(jì)算が得意の方」の常なのです。 けれども、もしもヤワな仕口だったならば、とっくの昔に使わなくなっていたはずですが、そんなことはない。使い続けられているのです。 私は、もうお分かりのことと思いますが、現(xiàn)場(chǎng)で実働されている方々の「直観」の方を、それこそが、「科學(xué)的判斷」と見なす人間です。すべてが數(shù)値化できる、などと考えるくらい「非科學(xué)的なことはない」からです。 下の寫真の下3枚。最初は「栓」を打つ前の段階で、「下木」の白線より右に「上木」の白線があります。 次の寫真は、「栓」を少し打込んだとき、最下段は、さらに「栓」を打込んで、「下木」「上木」が引き寄せられ、両者が柱に密著した狀態(tài)です。白線の位置でご確認(rèn)ください。 ここでは、柱は実物を使うのはやめました。模型が乾燥で狂ってしまっていることと(少しばかり削らないと、取付かない?。?、組んでゆく途中、橫材を維持するうまい方法がないからです。見にくいかも知れませんが、「柱」と記入した「紙」と「柱の刻み」で、組み上がりの姿を想像してください。 さて、実は今井町の「豊田家」(「高木家」のおよそ180年前の建物)では、「差鴨居」を使っているのですが、その取付け方法がかなり違います。 殘念ながら「豊田家住宅修理工事報(bào)告書」には、「高木家」のような「仕口詳細(xì)図」が載っていません。そこで、「取付図」などから想定して「仕口詳細(xì)」の想定図を作成する作業(yè)を、連休中にしてみようかな、と思っています。 もう一つやってみたいと思っていること。それは「古井家」の架構(gòu)模型作成。 ところで、最近當(dāng)ブログを見ておられる方の関心が、日本の木造技術(shù)以外で、「トラス(喜多方のトラス)」、「舊帝國(guó)ホテル」、そして「RCを考える」にあるように感じています。そのアクセスが目立つのです。 そこで、「豊田家」の作業(yè)をしている間、たまたま最近、その昔、信越線の橫川駅近くにある舊「変電所」を撮ったスライドフィルムを発掘(!)したので、その中から鉄骨のトラスの寫真をいくつか紹介しようか、と考えています(この建物は「重要文化財(cái)」に指定されて、現(xiàn)在は修理復(fù)元されていますが、寫真は、その前の荒れ果てた狀態(tài)のときの撮影です)。 一日中吹き荒れた風(fēng)雨もおさまり、今日は見事な青空。ただ、風(fēng)は強(qiáng)く冷たい。 今、新緑真っ盛り。ケヤキの若葉を透けて見える青空。 さて、今日は「修理工事報(bào)告書」の全コピーを「國(guó)會(huì)図書館」に依頼したときの話を。 「國(guó)會(huì)図書館」に事前に「利用者登録」をしておくと、誰でも、インターネットを通じて必要書物や資料の「複寫サービス」を受けることができます。 これまで、必要があると、近くの大學(xué)図書館へ行っていたけれども、それも面倒になり、昨年秋に利用者登録をして、手始めに「古井家住宅修理工事報(bào)告書」の全コピーをお願(yuàn)いした。昭和46年(1971年)の刊行である。 「古井家」の報(bào)告書は、70頁足らず。送料込みで2500円余りで綺麗なコピーを送っていただいた。もしも古書で手に入れようとすると(他の資料は、大方が古書店で購(gòu)入したもの)、もちろんコピーではないが、こんな値段では済まない。 そして、この春、今井町の「高木家」の報(bào)告書の全複寫をお願(yuàn)いしたところ、「國(guó)會(huì)図書館」から、著作権の関係で、全複寫はできない、原則半分が著作権法で認(rèn)められる分量で、全複寫をするには、刊行者?編者の「許諾書」がいる、との丁寧な連絡(luò)があった。 著作権の法的な期間は50年、「高木家」の報(bào)告書は1976年の刊行だから、まだ30余年、たしかにまだ不可の期間。 「古井家」の場(chǎng)合も不可のはずだが???、とは思ったけれども、勘違い?間違いもあるのだろう。 そう思って、この際、「高木家」とともに「豊田家」の報(bào)告書、「箱木家」の報(bào)告書の複寫資料を手許にそろえようと、前二者の刊行者の「奈良県教育委員會(huì):奈良県文化財(cái)保存事務(wù)所」、後者の編者「文化財(cái)建造物保存技術(shù)協(xié)會(huì)」あて、「許諾書」の発行を依頼した。 數(shù)日後、「奈良県教委?奈良県文化財(cái)保存事務(wù)所」から、資料の使用目的等についての問合せの電話があった。 そこで、世の中一般に、わが國(guó)の木造技術(shù)に対する誤解が蔓延していて、法令も往古の技術(shù)を全否定する傾向にある。最近になって往古の技術(shù)の見直しが始まりつつあるけれども、それも往古の技術(shù)を詳しく調(diào)べてのものではない。 そういった?jī)A向に対して、事実を開示しないと、誤解が真実であるかのように広まってしまう恐れがある、そういう事実開示のために使わせていただくのだ???と、少し長(zhǎng)くなったけれども電話で話をした。 私の「目的」は了解いただいたのだが、その話の過程で、こういう「報(bào)告書」の発行部數(shù)の話が出た。 「修理工事報(bào)告書」を?qū)g際に見ることができるのは、大きな図書館、大學(xué)図書館、建築史研究室など限られている。 たとえば、先に少し觸れた平安期建設(shè)の「白水阿彌陀堂」。福島県の「いわき市」にある。そこで、「いわき市立図書館」「福島県立図書館」蔵書をインターネットで調(diào)べたところ、蔵書にない。地元にないのである(調(diào)べ方が足りなかったからだろうか?)。 大學(xué)図書館だって、すべてが所蔵されているとは限らないのです。 何故だと思いますか? この種の「報(bào)告書」は、絶対的に、刊行部數(shù)が少ないからなのです。 「奈良県文化財(cái)保存事務(wù)所」刊の「高木家」「豊田家」の報(bào)告書の場(chǎng)合、刊行部數(shù)は、300部なのだそうです。全國(guó)で、僅かに300なのです! 私は、1000部くらいはあるのかと思っていたから、そこで絶句。 部數(shù)が少ないのは、予算の都合であるらしい。 そこで私は「著作権の保護(hù)」とは、いったい何を保護(hù)するのか、訝りました。 このような場(chǎng)合は、むしろ、「貴重な資料?データの死蔵に等しい」のではないのか、文化財(cái)として認(rèn)定して詳細(xì)な調(diào)査をする、その意味はいったい何なのか、その趣旨に反することが行なわれているのではないか、???私はそう思いました。 そしてさらに、事実に基づいた資料?データが広く開示されていないがゆえに、それをいいことに(皆が事実を知らされていないことをいいことに)、「似非伝統(tǒng)建築」の実験などが大手を振って行なわれてしまうのだ、とも思いました。 これは非常に問題だ、と私は思います。 依頼した「報(bào)告書」は、全部丁寧に複寫されて到著しました。3報(bào)告書で600頁を越える分量、総費(fèi)用は、僅か1萬6千円余り。古書で買えば、數(shù)倍じゃきかないでしょう。 これから先、著作権法に抵觸する、などと言われるかもしれませんが、私は、誰もが知っていてあたりまえと考えられる事実?資料は、手に入り次第、公開するつもりです。 見事な壯快な新緑の季節(jié)というのに、暗い話で恐縮です。 先回の図版のうち、最下段の詳細(xì)図を更新します。 仕口部を色分けしようといろいろ試みましたが、どうやってもうまくゆかないので、この程度でやめておきます。 なお、「竿シャチ継ぎ」の簡(jiǎn)単な模型がありますので、「シャチ栓」を打つと、どうなるか、天気が回復(fù)したら撮影して、載せるつもりです。 [文言不備部分改訂加筆 17.50] この三月、これまで抜粋コピーで済ませていた「資料」を、國(guó)會(huì)図書館から全コピーで取り寄せることにしました。 とりあえず、「古井家」「箱木家」「豊田家」「高木家」の「修理工事報(bào)告書」です。 全コピーとなると、著作権の関係で、いろいろと手続きが必要で、結(jié)局手許に入るまで、約一ヶ月かかりました。 その間にあった「余談」は、いずれ紹介します。 先回、奈良?橿原市(かしはら?し)今井町の「高木家」の架構(gòu)をあらためて紹介しました。 その架構(gòu)図は、「日本の民家6:町家Ⅱ」から転載?編集したものですが、元図は「重要文化財(cái) 高木家住宅修理工事報(bào)告書」(奈良県文化財(cái)保存事務(wù)所刊)にあります。 総二階建ての「高木家」の架構(gòu)が、「通し柱」を「差鴨居」で結(jié)ぶ方法を主にしていること、その「柱と差鴨居の仕口」が「竿シャチ継ぎ」であることを書きました。 そして、「報(bào)告書」には、この「差鴨居と柱の仕口:竿シャチ継ぎ」の詳細(xì)が、寸法入りで載っています。 そこで、今回は、それを紹介させていただきます。 上の図の一段目の左側(cè)は、「報(bào)告書」所載の「仕口詳細(xì)図」ですが、これは「へ」通りの「六通り」および「十四通り」との交點(diǎn)の「通し柱」の仕口を示したものです。 なお、參考比較のために、上段右下端に、現(xiàn)在の通常の「竿シャチ継ぎ」の分解図を載せました。 中段の図の左は、「へ六」の「通し柱」の全側(cè)面図で、「仕口」の彫りが記入されています。 次の図は、この柱の側(cè)面図から、「差鴨居」の取付き部を拡大したものです。 中段右の図は、これらの資料を基にして、「六通り」の差鴨居仕口をアキソメで書き直してみたものです(刻みが見えるように、通常とは角度を変えて描いています)。參考に、前回載せた「差鴨居分解図」から、當(dāng)該箇所だけ切り取り載せてあります。 そして下段の図は、同じ場(chǎng)所の詳細(xì)を大きく描き直してみたものです。 描き直す気になったのは、元図に、誤記と脫落箇所が見付かったからです。 a の寸法は元図では375mmになっていますが、各部の寸法を足すと315mm。おそらく、図に記入するときの誤記だと思います。 c の寸法には14□ の□の部分に脫落があります。下段の図では c を148mmとしていますが、これは下段の図で*印を付けた寸法を私が推定して想定したものです。 つまり、竿の長(zhǎng)さは270mmで分っている。竿の柱より外に出る部分:下木に差さる部分の寸法は、それから柱徑を引き算したもの。 「へ六」柱の徑は出ていないので、全般に4寸2分:127mmである、との報(bào)告書の數(shù)字を徑として計(jì)算し殘りは b:143mm。 下木の彫りの方は、「ゆとり」をとるのが普通なので、それを5mmとすると148mm、という想定計(jì)算の結(jié)果です。 これをまとめたのが、下段の図です。 なお、この図の右側(cè)の「竿付き」の材の、竿の下側(cè)の「目違い」(柱の內(nèi)側(cè)に納まる竿の幅と同じの出っ張りの部分を、通常、メチガイと呼びます)の「出」は元図にはありません。これも、柱徑を127mmとして、想定した寸法です。 左側(cè)の材:竿を受ける方の材の「目違い」の出は65mmとありますから、「竿付き」の材の「目違い」の出は、62mm以下でないと、両者が柱內(nèi)でぶつかってしまう。そこでゆとりをみて、多分60mm程度、と想定したわけです。 それはさておき、この仕口図を見て感心したのは、d と e の刻みです。 現(xiàn)在だと、參考図のように、ただ「胴付」を設(shè)けて「竿」をつくるのが普通です。 しかし、ここでは「胴付」に相當(dāng)するのは e だけで、上の d は「胴付」の中程を欠き取ってあり、どちらかといえば「目違い」と呼んだ方がよいような刻みです。 しかも、e は、わざわざ「臺(tái)形(梯形)」型に刻んであります。 「胴付」を設(shè)けるのは、「竿」だけに重さがかかるのを避けるため、材の捩れをを防ぐため、この二つの目的があります。 その意味では、現(xiàn)在の方法でも、一定程度目的は達(dá)成できます。 ところが、この現(xiàn)在の方法では、得てして、柱に亀裂が入るのです。 材の捻れ=「胴付」の捻れとなり、それに柱が押されて割れが入るのでしょう(今回は間に合いませんが、機(jī)會(huì)をみて、実例を?qū)懻妞墙B介します)。 「高木家」の差鴨居の手の込んだ刻みは、このような柱の割れを防ぐためと考えられます。 先ず e の「臺(tái)形」の刻み。こうすると、材が捩れようとしたとき、柱を割る力は、「木理:木目」に対して斜めにかかることになります。 普通の角型の「胴付」だと、力は直かに「木理」を裂くように働きますが、「臺(tái)形」だと、裂く力は斜めにかかるため、「木理」を裂く力:木理方向の力:が低減されるのです(「力の分解」の理屈です)。 上の方で、普通の「胴付」にせず、二列に分けたのは、それで十分「捩れ止め:狂い止め」の目的は達(dá)成できる、という判斷でしょう。 しかも、柱の欠き取りも少なくて済み、柱との噛み合いも強(qiáng)く、それでいて柱に割れの入る恐れも格段に少なくなるのです。よく考えてあります。 いろいろ考えてみても分らなかったのが d を一段下げた理由です。北側(cè)からの差鴨居の「胴付?目違い」と位置(高さ)が同じにならないようにするためか、とも考えましたがそうでもない。他のところにはないやりかただ。??? そこで、あらためて元図を見直したところ、元図には d の上に、斜めの線がある。 最初私は、単なる図の汚れぐらいに考えていたのですが、そうではないことに気がついた! その部分は材木の「丸み」の部分なのです。したがって、その部分はないのだから、當(dāng)然刻みは下げざるを得ない、というわけです。 下段の図は、そのことが分らないままで描いた図です。そして下がりを30mmとしてありますが、それは図上で計(jì)った寸法で意味がない!「丸み」次第なのでした! ちゃんと「丸み」をつけた図に描き直さないといけません!でも、間に合わないので、恐縮ですが、角に「丸み」があると思って見て下さい!!。 この刻みは、きわめて手の込んだ細(xì)工です。しかしそれは、すべて、その部位で「何が起きるか、どんなことが想定されるか???」を考えた結(jié)果の仕事なのです。 ある種の大工さんのなかには、昔も今も、意味を考えず、いわば「趣味」として複雑な刻みをしてとくとくとしている人たちがいます。 しかし、「高木家」のそれは、「遊び」ではなく、「意味」があるのです。 他の部分の仕口も描き直してみると、おそらく別の発見があるのかもしれません。 今、割と気楽に「継手?仕口」を考え、また使っていますが、やはり、各部位に何が起きるかを考えながら使わなければならないことを、あらためて感じた次第です。 三月いっぱいにまとめる話が、先週末に、ようやく落著。 さて、「継手?仕口」の話の続き。 先回は江戸時(shí)代までくると、「シャチ栓」を使う継手?仕口が増えてくることを紹介しました。 今回は、以前にも載せましたが、江戸時(shí)代も末、天保年間:1830~40年頃の建設(shè)と言われ、竣工直後に「安政の大地震」に遭ったはずの奈良県橿原市今井町の商家:「高木家」の架構(gòu)法を紹介します。 この例は、日本建築學(xué)會(huì)編の教科書「構(gòu)造用教材」に「伝統(tǒng)工法」の例として載っているくらいですから、その筋の學(xué)者先生方も無視するわけにはゆかない建物なのだ、と思います。 それはともかく、この建物の架構(gòu)は、実に明快にして明解。 この建物の直ぐ近く、300mほど離れた場(chǎng)所に、これも以前紹介した「豊田家」があります。 両家は、ほぼ同規(guī)模の商家ですが、こちらは寛文2年:1662年の建設(shè)ということが分っています。この建物も「安政の大地震」を経てなお健在です。 この二つの建物は、建設(shè)時(shí)期に約180年の隔たりがあることになります。 ですから、両者を見比べると、その間の「技術(shù)」の推移の様態(tài)が分る絶好の現(xiàn)場(chǎng)なのです。一日で、しかも同じ町內(nèi)で見比べられるなんていうのは、滅多にありません。 そして、この二つの建物では、まさに「シャチ栓」が主役。主要な「仕口」はすべて「シャチ栓継ぎ」なのです。 今回は、「高木家」の「當(dāng)初復(fù)元平面図」と調(diào)査で分った「架構(gòu)図」と、主要な「仕口」図を載せます。図は「日本の民家」(學(xué)研)および「高木家住宅修理工事報(bào)告書」(奈良県)が出所です。 上の「仕口図」は、「架構(gòu)図」で「黃色に塗った通り」の「差鴨居の仕口分解図」、下は同じく「緑に塗った通り」の「根太受けの仕口分解図」です。 [恐縮ですが、図の部分をプリントして、それを片手にお読みください] 「高木家」は総二階建て(一部吹き抜け:どま)の建物ですが、その架構(gòu)は、現(xiàn)在の二階建ての方法とは大きく違います。 平面図で分るように、一階と二階の平面:間仕切位置はほとんど同じです。そして、建物の四隅と間仕切の交點(diǎn)に「通し柱」が立ち、「通し柱」~「通し柱」には、「差鴨居」が組まれます。 そして、二階の床は、この「差鴨居」上の「束柱」で支えられた「根太受け」が根太を受け、床を張る、という手順で組まれています。 そのうちの「六」通り(黃色に塗った柱列)の「差鴨居」の分解図と、「ほ」通り(緑色にぬった列)の「根太受け」(今なら「床梁」「二階梁」とでも言うでしょう)の分解図が上の図です。 この方法は、「束柱」で支えた「大引」で根太を受ける一階床に似たやりかたを、「差鴨居」上でやっている、と考えてもよく、言うならば「根太受け」は一階床の「大引」にあたる材、そこで、ここでは「根太受け」という名で書いたのです。ただ距離が跳ぶので丈が6寸~7寸ほどになっています。 この建物で特徴的なのが、柱は「通し柱」も「管柱」も、すべて、4寸2分角(12.7cm)であることです。いわゆる「大黒柱」がない。 當(dāng)初の柱がすべて殘っていて、柱総數(shù)61本、そううちの32本が「通し柱」(ということは柱の半分以上が通し柱ということです?。?、18本が「管柱」(1階だけ、または2階だけの柱)、11本が「庇柱」(庇支持用の柱)とのこと。 北面の「庇柱」は3寸6分角、南の通りに面する「庇柱」は主柱と同寸の4寸2分角を使っています。 柱は、東西両側(cè)の通り(「い」「る」)と「り」通りでは5寸角のヒノキの「土臺(tái)」の上に立ち、南北面では「礎(chǔ)石建て」、「土臺(tái)」のように見えるのは「地覆(ぢふく)」です。 なお、「土臺(tái)」の「継手」は「腰掛け鎌継ぎ」、「土臺(tái)」に立つ「柱」は「長(zhǎng)枘差し」です。 さて、「差鴨居」と「通し柱」の取付きに使われているのが「シャチ(栓)継ぎ」です?!父庭伐悭辆@ぎ」と言うのが正式名です。柱を貫通して相手側(cè)に差す長(zhǎng)い「枘」を「竿」と呼んでいますが、この建物では、一材からつくりだしています。こういう場(chǎng)合を「本竿」と言うようです。 今回は詳しく觸れませんが、細(xì)部の刻みも、非常によく考えられた仕事がされています。つまり、ただ彫ればいい、という仕事ではなく、それぞれの刻みに「意味」があるのです(報(bào)告書に「刻み」部分の詳細(xì)実測(cè)図があるので、次回に紹介を予定しています)。 二階床の「根太受け」は、「二」通りから「二〇」通りまで、同じ高さで一列に連なっていますが、「六」通りと「一四」通りの「差鴨居」上の「束柱」の真上で継いでいて、「目違い付き鎌継ぎ」を使っています。 その場(chǎng)合、「下木」側(cè)を「束柱」が受け、その「下木」に「上木」が落される形をとっています。「腰掛け」を設(shè)けていないのは、下から「束柱」が受けているからで、「目違い」を設(shè)けたのは、「上木」の側(cè)の材の下部が、「下木」からはずれて捩れることを嫌ったからです。 ということは、単に、継承されてきた「仕口」の「形」を刻んでいるのではなく、常に「理由」を考えて刻んでいる、ということです。どう継ぐか、どう取付けるのが最上か、場(chǎng)所?部位ごとに、そこで何が起きるか、何を考えておかなければならないか、考えているのです。 常に「理由」を考えながら仕事をする、まさにこの點(diǎn)こそ、現(xiàn)在の多くの「技術(shù)者」が忘れてしまった「技術(shù)の本質(zhì)」なのではないかと、私は思います。 今の「技術(shù)者」の中には、金物が付いていればいいや、で済ませてしまい、何のための金物なのか、考えない人がたくさんいます。 その極めつけは、大方の確認(rèn)審査を擔(dān)當(dāng)する「技術(shù)者!」の方々です。そして、それに唯々諾々としてしたがう「建築家」の方々です。 「高木家」は、「浄土寺?浄土堂」「東大寺?南大門」などと同じく、すごいなぁ、と、私がいつも思う建物の一つです。 ?。蹏砻妞·丹工蓼筏?。図版編集しなおそうかと思っていますが、 とりあえずは、恐縮ですが、拡大して見てください。] ふと、ドイツの継手?仕口の本があったことを思い出して、パラパラとめくってみました。 「Handwerkliche Holzverbindungen der Zimmerer」 295×235㎜ 全191ページ 1992年 Deutsche Verlags-Anstalt刊 日本や中國(guó)、ブータン、ベトナムなどの事例も參考として少し載っています。 現(xiàn)場(chǎng)で仕事をする人というのは、皆、同じようなことを考えるものだ、と思います。 見てて楽しくなります。 そして、やはり、ドイツには、ちゃんと系統(tǒng)だてて調(diào)べる人がいるんですね。 日本ではこういう本はないようです。 こういうのを見ると、日本人のなかには、日本の木造技術(shù)は、中國(guó)ではない、ドイツがルーツだ、なんていう方が出てきたりするかもしれませんよ???。 全部というわけにもゆかないので、これまで見てきた日本の継手?仕口と共通するものを集めて、勝手に分類してみました。 図版が長(zhǎng)いので、そして、ドイツ語をは遠(yuǎn)い昔にかじった程度ゆえ、読むには時(shí)間がかかりそうなので、今回は、図版だけでご勘弁を??。 読解できたら、それぞれをどんな意味の名稱なのか見てみたいとは思っています。分るかどうか頼りない??。期待しないでください。 もっとも、読解できなくても、図だけで何か言えるとは思いますが??。 なお、最初の寫真で分るように、木材はほとんど広葉樹系のようです。 「継手?仕口」というのは、大體、出來上がってしまうと見えなくなります。 また、多くの人は、専門家を含めて、あるいは「建築家」を表に出す人は特に、そういう細(xì)工がしてあることに気がつかないし、注意も払いません。 おそらく、こうなったのは、設(shè)計(jì)と施工が別扱いになってからのことでしょう。 昔も「指図」するだけの人はいました。しかし、その人たちは、見えないところも知って指図をしています。だから指図できたのでしょう。 それはさておき、 先に、中世の様態(tài)をみてきました。室町の頃になると、精緻な仕事もが増えてきます。今回話題にする「シャチ」も、どうもその頃から多く使われるようになるようです。 上の図の①~③は、前回にも載せてあります。ただ、前回は寸法表示が見えなかったので、図版をつくり直しました。 ①は、斷面が4寸×3.5寸の2材を、長(zhǎng)さで2尺分、半割りにして合わせ、中央部に上から「栓」を打って2材を密著させる、というもの。 それぞれの材の先端に小さな「枘」:「小根枘(こねほぞ)」をつくりだしてありますが、これは相手の材に嵌まり左右にはずれなくする工夫です。 この部材は、正面下からしか見ない箇所ですから、見る人には1本の線しか見えません。 ②は、仕上がると「鎌継ぎ」に似た形になりますが、密著度は「鎌継ぎ」よりも、はるかに強(qiáng)くなります?!杆ā工虼颏膜长趣恰ⅲ膊膜苤工毪椁扦?。 しかも、仕事は「鎌継ぎ」よりも簡(jiǎn)単です。上木になる材の細(xì)長(zhǎng)い部分を「竿(さお)」と言いますが、仕事は「竿」をつくりだすだけで、「鎌」の形を刻む必要がありません。下木も同じで、「竿」の道を彫るだけで済みます。そのあとで、上木、下木に「栓」を通す「道」を刻めばよいのです。 仕事が簡(jiǎn)単で、強(qiáng)い「継手」になる、こんな優(yōu)れものはありません。 なお、図では、下の材に竿のついた材を上から落して継ぐように見えますが、実際はその必要はありません。左の材に、橫から差し込むこともできます。その點(diǎn)も「鎌継ぎ」とは違います。 ③は、通稱「金輪継ぎ(かなわつぎ)」「尻挾継ぎ(しりばさみつぎ)」などと呼ばれる「継手」に同じと言ってよいと思います。 これはきわめて強(qiáng)い「継手」で、ほとんど1材と変わりないと言われます。 同様に強(qiáng)い継手に、ここにはありませんが、「追っ掛け大栓継ぎ」というのがあり、これは下木に上木を上から落す仕事になるのに対して、この場(chǎng)合は、材を水平に動(dòng)かす作業(yè)で継ぐことができます。 それゆえ、土臺(tái)が腐った、などというときの補(bǔ)修に使える継手です。腐った部分を取去り、先端にこういう刻みをして、同様の刻みをした取替え材を橫から合わせ、「栓」を打てばよいわけです。 そういう場(chǎng)合、普通は、この継手を90度回転した恰好にします。橫からだけの作業(yè)で済むからです。その場(chǎng)合を「布継ぎ」とも呼んでいます。 ③では念には念で、2材を「かすがい」でとめています。何となく「小根枘」だけでは左右に離れてしまうのではないか、と考えたのでしょう。 この「心配」をみると、これは、ことによると、この継手が考え出された初めのころの事例なのかもしれません。 ④は、③の変形と考えてよいと思います。ここでは、もう「かすがい」は使っていません。 ⑤は、こんな幅の狹い材で、よくぞやってくれた、と驚く仕事。②とは「栓」の位置が違うだけで、原理?理屈は同じです。 ⑥は、原理?理屈は③④に同じですが、これも驚いてしまう仕事。 角材の、しかもきわめて細(xì)い角材の斷面の1/4だけを使い、「栓」を二方から打っています。 具體的にどういう場(chǎng)所なのか分らないのですが、そうしなければならない理由があったのだと思います。 ⑦は手慣れた「金輪継ぎ」「尻挾継ぎ」と言ってよいと思います。 さて、⑧は、通し柱に橫材:差物を二方から差すとき、一般の建物で常用される手法:「継手兼仕口」です。 なぜ「継手兼仕口」と言うかというと、柱を挾んだ2本の橫材を継いでいると同時(shí)に、それぞれの橫材に「胴付(どうづき、附の字を使うこともある)」が設(shè)けられているために、「栓」を打つと、柱を挾んでいる2本の橫材は強(qiáng)く柱に取付くことになり、それゆえ堅(jiān)固な「仕口」にもなるからです。 「栓」が打たれると、柱と橫材で、頑強(qiáng)な十字型が形成されます。 この事例の建物の建設(shè)年の1656年というと、奈良今井町の町家が盛んに建てられていたころ。今井町の町家では、この手法が柱の四方に使われています(「四方差」)。 ⑨は、以上と同じ原理?理屈が、柱の足元の取替えに使われている例。 これは、③の方法を、垂直方向に使ったと考えればよいでしょう(先回紹介の私の拙い仕事を垂直に使ったものと言えます)。 もっとも、この神社では理由が分りませんが、最初から使われていたそうです。 かつては、柱の根元が腐ったりしたとき、この「継手」を使い修復(fù)することができました。 しかし、現(xiàn)在は、金物補(bǔ)強(qiáng)している関係で、このような修復(fù)ができなくなっています。 現(xiàn)在の法令の推奨する仕様は、補(bǔ)修?修繕について、まったく考慮されていないのです。長(zhǎng)壽命住宅などと言いながら、それでは片手落ち???。補(bǔ)修?修繕なしで、長(zhǎng)持ちするとでも考えているわけで、それでいて「指図」したがるのは困ったもの。それは指図ではない。 ここで見てきた「栓」は、⑨以外は、普通「シャチ」「シャチ栓」などと呼んでいます(⑨は「込み栓」と呼ぶと思います)。 漢字では「車知」などと書きますが、當(dāng)て字です。「差し」から転じて「シャチ」になったのではないか、とも言われています。 こういう仕事が簡(jiǎn)単で優(yōu)れた「継手?仕口」を最近使わなくなりました。 設(shè)計(jì)者は、そういう仕事のできる大工さんがいなくなったと言い、 大工さんは、そういう仕事が少なくなった、そういう設(shè)計(jì)が少なくなった、と言います。 どちらの言い分が本當(dāng)なのかは、明々白々ですよね。 春休み明けです。 もう數(shù)十年前のことになりますが、屋外に露出しているベランダの桁が腐ってしまい、自分で修復(fù)手術(shù)をやってみたことがあります。 本格的修復(fù)などできるわけもなく、どこかで見たようなことを、見よう見まねでやってみました。 上の図は、そのときやったことの図解です。番號(hào)は、仕事の順です。 図の白い部分が、元の部分。腐った先端を鋸で切り落とし、鋸と鑿(のみ)で、ざっとこんな形に加工しました。ほんとに「ざっと」の仕事です。 黃色の部分が継ぎ足した材料。これも「ざっと」の仕事。 ピタッと合うことなど最初から考えてもいませんから、何とかあわせ、できた継目の隙間に埋木をしました。これも、埋木などと言う名前がもったいないような、かなりいいかげんな埋木です。 埋木を金槌で打ってゆくと、支えていたとはいえ、空中での仕事で上面が少しばかり喰い違ってしまい、途中で平らに直そうとしたのが、驚いたことに、ちょっとやそっとでは動(dòng)かない。 上面が狂わないような細(xì)工をすれば楽だったのでしょうね。もう遅い。 しょうがないのでこれ以上無理だというくらいに目いっぱい埋木を打ち込み、できあがった後で、上面をきたなく削りました。 白い部分は既にある部分ですから、そのまま。埋木を打つと、打込むにつれ、黃色の方の材料は左に寄ってゆきます。黃色の方の先端が相手に著いてもさらに打つと、両者はきつく押される、つまり密著の度合いが強(qiáng)くなります。そうなると、ほとんど一つの材と変らないほどになってしまいます。 それは、想像以上でした。予想外だった、と言った方がよいかもしれません。 これが「栓」の効果なのだ、とそのとき納得したことを覚えています。 おそらく、昔の人も、こんな具合に、「栓」の効用を発見したのでしょう。ところが、これまで見てきた古代からの継手?仕口の中に、それが見當(dāng)たりません。埋木はありましたが、それは楔としての利用です。 このような栓を打つことで二材を密著させる、という効能を使う例が、いつごろ現(xiàn)れるのか、「文化財(cái)建造物伝統(tǒng)技法集成」で調(diào)べてみたところ、この書物は寺院建築の事例を集めていますが、室町時(shí)代末を過ぎないと現(xiàn)われないようです。 それは多分、まったくの推測(cè)ですが、ここで私がやったような継手:「鉤型付き相欠き」(通稱「略鎌」)は古代?中世にあったけれども、どの場(chǎng)合も、柱內(nèi)部で継いでいたからではないか、と思います。継手部が少しの誤差もなくぴったりと著いているとは考えられず、多少の隙があったはずです。しかし、見えないため気にならない。 ところが室町を過ぎるころから、「相欠き」を柱の位置から持ち出した箇所で使う例が出てきます。そういう例から、隙間を埋める必要も生じ、そこから埋木の新たな効能を知った、というように考えられるような気がします。 それはともかく、次回から、このように「二材を引き寄せる役割を持つ栓」を使う「継手?仕口」の例を見ることにします。なぜなら、後の「三方差」「四方差」といった「通し柱」に橫材を取付ける「優(yōu)れものの継手?仕口」が生まれるからです。 上の図版の下段は、「栓」の別の使い方の例。 これは二材を密著させる働きは少なく、柱に差した橫材が、柱から抜けないようにするための「栓」の例で、部材の端:鼻(はな)に打つ栓、という意味で、「ほぞ差し?鼻栓(はなせん)打ち」と呼んでいます。 橫材を柱から抜こうとするような力がかかると、「栓」と「柱」が喰い込みあって抵抗するのです。ただ、粘り気のない木材(ベイマツなど)には使えません。力がかかると「栓」の位置から先の部分が飛んでしまうからです。 なお、この方法は、農(nóng)家住宅や町家では普通に見られますが、書院造などでは見えるところでは使っていません。 こういう「栓」は、鉄製の機(jī)械などで使われる「ピン」に似た使い方ですが、「ピン」と大きく違うのは、木の「栓」には弾力があることです。 上の寫真は、「椎名家」に使われている「鼻栓」の例です。 今回は中世の継手?仕口概観の最後。ス)「慈照寺東求堂(じしょうじ とうぐどう9」、セ)「大仙院本堂(だいせんいん ほんどう)」そしてソ)「新長(zhǎng)谷寺客殿(しん ちょうこくじ きゃくでん)」について。 このうち、「新長(zhǎng)谷寺客殿」については資料が手許にありません。 今回は、すでに載せた継手?仕口図のほかに、「東求堂」と「大仙院」については、梁行?桁行斷面図を載せました。その図の色を付けてある箇所は、小屋裏:天井裏になる部分です。 このス)セ)ソ)の3例は、いずれも「桔木(はねぎ)」によって軒をつくるときの、その下の化粧天井:「化粧垂木」を受ける「桁」(これも「化粧」です)の柱への取付け法と、その継手?仕口の図です。 この手法?方法は、「書院造」に共通の仕様で、「慈照寺東求堂」の例が最初の事例のようです(もちろん現(xiàn)存建物の中で)。 「化粧桁」は、柱の半分ほどの幅で、その幅分柱を欠きとり、そこに嵌め込んでいます。 仕上りは、柱と桁は同面になり、柱が桁を受けていて、柱はそこでとまっているように見えますが、実際は、柱は天井裏へ伸びて「野屋根」の小屋組を支えています。ス)には斷面詳細(xì)図を載せましたが、ちょっと分りにくいところがあります。 ス)「東求堂」およびソ)「新長(zhǎng)谷寺」の柱への桁の取付け仕口は、同じやりかたで、柱の方に広幅の「蟻型」をつくりだし、桁および肘木側(cè)に同型の蟻型を彫り、柱の欠き取りを桁および肘木の高さ1個(gè)分大きめにつくり、その部分だけ図のように「蟻型」を設(shè)けず、そこへ材を押し付け落す、という方法です?!嘎浃废仭工ⅳ毪い稀赶伮浃贰工妊预い蓼?。柱の天井裏になったところには、最初に材を押し付ける箇所が彫られたまま殘っています。 セ)「大仙院」では、柱全體を「蟻型」につくりだし、そこへ「半蟻」を彫り鎌をつくりだした桁材を落して継ぐ手法をとっています。やはりス)ソ)同様に、「蟻型」のない箇所をつくってあるものと思います。 ス)セ)の化粧の「桁」は、柱~柱が1本で、柱上の「舟肘木」上で継いでいます?!钢壑饽尽工饣挙扦?。 ソ)の継手には「シャチ栓」が使われています?!弗伐悭了ā工稀⑨幛榇蜣zむことによって、2材を引き寄せ密著させる優(yōu)れものです。室町時(shí)代の後期にすでに使われているのです。これについては、いずれ詳しく見ることにします。 この頃までには、工人たちの間では、木材という材料の特徴、その扱い方について、知り盡くされていたのかもしれません。 ス)セ)のように、「舟肘木」に「太枘(ダボ)」や「栓」が用意されているのは、単に「桁」と「肘木」が見かけの上で綺麗に密著することだけを考えているのではなく、この「桁」に強(qiáng)度上の役割を持たせているからだと思います。 すなわち、軸組は下から「足固め」、「內(nèi)法」、「天井」の三段の貫だけで架構(gòu)をつくっていますが、「桔木」の部分が、小屋組部分と軸組を結(jié)びつける役割をはたしているのです。 これは「大仙院」の斷面図でよく分ると思います。 「大仙院」では、小屋組の梁のうち、「桔木」のある箇所の梁は、梁行、桁行とも、中央部:室中の箇所の梁よりも低い位置に架けられています。そうすると、その箇所では、「桔木」と繋ぎの梁が三角形を形成することになります。 そして、「斷面が三角形をした立體」が、軸組の低い部分と高い部分の段差の部分で、中央の高い軸組部分の四周をひとまわりする恰好になるのです。 その結(jié)果、軸組と小屋組とは一體の立體になることになります。 おそらく、長(zhǎng)年の経験で、「桔木」を四周に設(shè)けると、単に軒を楽に深く出せるだけではなく、軸組と小屋組を一體化できることを発見していたのではないでしょうか。 そしてそのとき、「化粧垂木」もまた有効であることも気がつき、だからこそ、それを受ける、そして柱列を固めることになる化粧の「桁」にも細(xì)心の注意を注いだのだと考えられます。 実際、「書院造」の化粧垂木は、平安時(shí)代の細(xì)身の「見かけ」のものとは違い、それだけでも荷を背負(fù)えるような、しっかりした斷面をしています。 いずれもきわめて手の込んだ仕事で、セ)の「內(nèi)法貫」の継手、僅か1寸(約3cm)厚の貫の継手にこのような細(xì)工をするとはまことに恐れ入ります(柱が仕上り4.3寸ですから、貫厚は柱徑の約1/4にあたります)。 以上、分る範(fàn)囲で説明してみました。知れば知るほど、まだ先があるなあ、と思わずにはいられません。 なお、3月いっぱいに締めなければならないことがあるので、しばらくここで休憩いたします。 その間には、次回以降のための新しい資料も手に入るかと思います。 引き続き、ク)からシ)まで。 殘念ながら、これらの建物についての資料が手元にありません。そこで、それぞれの建物について知る方策を調(diào)べました。以下の通りです。 ク)燈明寺 本堂:とうみょうじ ほんどう 現(xiàn)在は廃寺。元は京都府相楽(さがら)郡加茂町にあった寺です。 現(xiàn)在、橫浜の「三渓園」內(nèi)に移築?保存されています。 この図は內(nèi)陣のもの。 「文化財(cái)建造物保存技術(shù)協(xié)會(huì)」開設(shè)の「文化遺産オンライン」で 概略をみることができます。 下記から「燈明寺 本堂」で検索してください。 「文化遺産オンライン 建造物修復(fù)アーカイブ」 ケ)久安寺 樓門:きゅうあんじ ろうもん 大阪府池田市にあります。 「久安寺」自體のHPはないようですが、「久安寺」検索で、 いろいろな方の撮られた寫真が見られます。 コ)円教寺 食堂:えんきょうじ じきどう 書寫山(しょしゃざん)園教寺 所在地:兵庫県姫路市書寫。 姫路城の北西にあたる。 総二階建て、長(zhǎng)さおよそ40mの建物。 下記から「食堂(じきどう)」の項(xiàng)をご覧ください。 「書寫山園教寺」 サ)円成寺 本堂:えんじょうじ ほんどう 本堂は「阿彌陀堂」が正式。 所在地:奈良県奈良市忍辱山町(にんにくせんまち) 奈良盆地の北東、柳生街道沿い。 寺內(nèi)多寶塔にある大日如來座像は運(yùn)慶の第一作とのこと。 下記から「本堂」の項(xiàng)をご覧ください。 「円成寺」 シ)不動(dòng)院 本堂:ふどういん ほんどう 所在地:奈良県 大和高田市(桜井線「高田」駅近く) 本尊:大日如來像(鎌倉(cāng)時(shí)代)ゆえに「大日堂」とも言う。 下記に外観寫真と簡(jiǎn)単な説明が載ってます。 「奈良の寺社」 恐縮ですが、以下は、図版をプリントしていただき、それを片手にお読みください。 さて、ク)「燈明寺本堂」の「継手」。 二つの継手はともに「鎌継ぎ」。 その內(nèi)の左側(cè)の「足固貫」の「継手」が、どういう場(chǎng)所で継いでいるのか分らない。左側(cè)の材を先に據(jù)え、それに被せるように右の材を置く。「鎌」が斜めに刻んであるので滑り降りて固く締る。それは分るのだが、ではどこで継いでいるのかが分らないのです。??? 右側(cè)の「頭貫」の「継手」については、場(chǎng)所は分りますが、なぜわざわざ手間をかけて「鎌継ぎ」にしたのかが分りません。 柱の側(cè)に、「貫」に喰いこむ凸部がありますから、「貫」は落とし込むだけで柱に固定されます。それゆえ、単に「相欠き」にするだけの古代の方法で十分なのではないか、と思えるからです。 それでいて、「斗」は「太枘(ダボ)」で取付ける古代の方法。 ケ)久安寺?樓門の例。 すべて「高欄」の部材の「継手」。いずれもきわめて手の込んだ細(xì)工です。 「高欄架木」の「蟻継ぎ」以外は「鎌継ぎ」の各種応用編と言ってよいくらい多様です。 継いだあと、継目に隙があかずに、そして継目が綺麗に見えるように、いかに二材を密著させるか、に意をそそいでいるようです。 これだけの細(xì)工をするには、道具も逸品が用意されていたと考えられます。 「地覆」(いわば高欄の束柱を立てるための「土臺(tái)」に相當(dāng)する材です)の継手は、いずれも「束」の立つ箇所で継いでいるので、上端に「束」の「枘孔」が彫られています。 一番上の図は、ごく単純な「鎌継ぎ」を下側(cè)に設(shè)け、上側(cè)に「枘孔」を彫っています。 次は「鎌」を微妙な位置で2枚設(shè)け、上側(cè)に「枘孔」を彫っています。 仕上りの外見は「束」の芯の位置に継目が1本見えるだけです。つまり、両者まったく同じです。両者の材寸が同じですから、同じ「高欄」の「地覆」でしょう。 しかし、この二つをどういう使い分けているのか、分りません。単に、「擔(dān)當(dāng)者」の違いなのか? 3番目、継目を斜めにした例。もっとも片側(cè)は垂直。これも、どういう箇所でこの方式にしているのかが分りません。 それにしても、二材の狂いをいかに避けるか、その工夫は並大抵ではありません。多分、二材をあてがってみては削り、あてがってみては削り???という作業(yè)を何度も繰り返しただろうと思います。へたをすると、一箇所完成するのに一日近くかかったりするでしょう。 「架木」の継手。何の気なしに見ている「高欄」の「架木」が、こんな継手になっているとは知りませんでした。「束」の頭を傷めずに、腰掛けるだけで、しかし二材は継がれている。単純だけれども確実です。 これらを見ていると、工人たちが、いかに綺麗に仕上げるか、楽しみながら、あるいは腕を競(jìng)いながら、仕事をしている様が目の前に浮かんできます。 コ)円教寺?食堂。 「頭貫」の継手?仕口は、ク)の「頭貫」のそれと同じです。 これを見ていると、この頃になると「鎌継ぎ」「蟻継ぎ」「蟻掛け」の刻みは何の苦もなくできるようになっていたのではないか、と思えます。 とは言っても、Tの字部分も含め、「相欠き」あるいはその応用で済むものを、わざわざ手間をかけるのはなぜなのか、わかりません。 「丸桁」の「継手」を「鎌継ぎ」にするのは、先回のイ)「円光寺」、ウ)「如意寺阿彌陀堂」、キ)「桑実寺本堂」と同じで、化粧に意をつくすためでしょう。 「二重梁」の「継手」は、材の端部を細(xì)めていること、同一レベルで交叉しないことをのぞけば「大仏様」の「飛貫」の「継手」と同じです。 この方法は、「埋木?楔」さえ気にならなければ、「差鴨居」の最も簡(jiǎn)単な「継手」として応用可能です。 興味深いのは、「野垂木」の「継手」です。 これは、「母屋桁」から持ち出した位置で継ぐための工夫と考えられます。 材寸は高さ2.5寸(約7.5cm)幅2寸(約6㎝)で、決して太い材ではありません。それにこのような細(xì)工をするというのは、たしかに確実に継がれ、一材と変らない強(qiáng)度が得られるとは思いますが、現(xiàn)在では考えられません。よほど素性のよい材料でないと、加工中に傷んでしまいそうです。 サ)「円成寺本堂」の例。 ともに「?jìng)?cè)桁」の「継手」ですが、左側(cè)は幅8寸×高さ7.5寸(約24cm×22.5cm)の材を「枘」を2枚にした「柱」の上で継ぐ場(chǎng)合ではないかと思います。 「鉤型付相欠き」を縦方向で使う「継手」は、柱から持ち出した位置で継ぐ時(shí)に使うのが普通で、上から荷をかけても曲がらない強(qiáng)い「継手」です。なぜ柱上で使ったのか分りません。 「大仏様」の工人なら、同じ「継手」を平に使って(橫位置で使って)、1枚の「枘」で両者を貫く方法をとるものと思います。細(xì)工もその方が簡(jiǎn)単です。 右側(cè)の「継手」は、先の例とは材の幅がひとまわり小さくなっていますから、別の位置の「?jìng)?cè)桁」で、柱から持ち出した位置で継ぐ例で、多分化粧桁ではないでしょうか。 シ)「不動(dòng)院本堂」 この図はミリで寸法を表示しています。 「足固貫」「內(nèi)法貫」は18.1cm×9.1cmの角材。この材を、「大仏様」同様、柱內(nèi)で継ぐ「継手」と思われます。ただ、先端部に幅1.8cm×奧行2.1cmの凸部:「目違い」を設(shè)けている點(diǎn)が違います?!改窟`い」は、2材が捩れるのを防ぐためのもの。しかし、柱の孔の中で継ぐわけですから、捩れは心配ないはずです。それとも、材の素性が悪く、外で次いでから孔に挿したのか? 「大引」は丸太の上端と下端を平らに仕上げた材を使い(「太鼓落し」などと呼びます)、側(cè)の柱で「足固貫」に「鉤型付き相欠き」で交叉させ楔で締めているものと思われます?!复笠工问智挨贤柚巳「钉瑜Δ艘姢à蓼工?、その端部の刻みは何のためか、いろいろ考えましたが分りません。 「根太」は幅9.1cm×12.1cmの太い角材です。ここで使われている「継手」は、いわゆる「略鎌」。「大引」上で継ぐ場(chǎng)合を示しているものと思います。 「大引」~「大引」間で「根太」に荷がかかり「根太」が撓もうとしても、この「継手」のかかりの部分が抵抗して、撓みを低減してくれるのです。 ざっと見たところ、この時(shí)代になると精緻な細(xì)工:刻みが可能になっていることがよく分るのですが、その一方で、そのような細(xì)工:刻みをする理由に一貫性がない、あるいは合理的な理由がないように見えるのは、私の思い過ごし:偏見でしょうか。 前回に引き続き、今回は鎌倉(cāng)時(shí)代中頃のオ)「龍巖寺」と、少し間が空いて室町時(shí)代初期の、方丈建築最古の建物であるカ)「龍吟庵方丈」、そしてキ)「桑実寺(くわのみでら)」に使われている継手?仕口を見ます。 私の観ているのは「龍吟庵方丈」だけで、図面もこの建物だけ手元にあります?!庚堃麾址秸伞工摔膜い皮稀⒋蠓智挨恕富鶞?zhǔn)寸法」の話で觸れていますが、柱間寸法:1間=6尺8寸としていた時(shí)代の建物です。また図版もそのときと同じです(「建物づくりと寸法-1????1間は6尺ではなかった」參照)。 オ)の「竜巖寺」の例は「軒桁」「母屋桁」の継手に使われている「鎌継ぎ」で、「角鎌」になっています。 この図だけでは柱との位置関係が分りませんが、おそらく持ち出した位置で継いでいるのではないでしょうか。橫3.6寸×高さ3寸という斷面からみて、化粧の部材だと思われます。 キ)の「桑実寺の」例では、「頭貫」に、斜めの鎌の「鎌継ぎ」と角型の「鎌継ぎ」の2種類の「鎌継ぎ」が使われています。 2種類使う理由が特にあるようには思えませんから、擔(dān)當(dāng)者の任意の判斷ではないか、と思います。 中世になっても、「古代鎌」と呼ばれる「角鎌継ぎ」を、あいかわらず使う工人がいたのでしょう。 また「頭貫」の柱への納め方は、図から判斷すると、柱の「太枘(ダボ)」で固定しています。これも古代の、しかも初期の方法です。 キ)では、「床根太」「軒桁」そして天井の「格縁」にも「鎌継ぎ」が使われていますが、どれも大きく力のかかる場(chǎng)所ではありません。 なお、「軒桁」の上端に彫られている小穴は、「面戸板」を納めるためのもので、丁寧な仕事です。 一方、足固めには「足固貫」が使われ、「継手?仕口」は「大仏様」で多用されている柱內(nèi)で「鉤型付きの相欠き:略鎌」で組む方法がとられています。 おそらく、この「桑実寺本堂では、工法について一定の方針があったのではなく、仕上りの姿だけあって、それを何人かの分業(yè)で、手法は各自に任せ、その結(jié)果、古今の方法が適宜に使われ混在したのではないか、と思えます。 カ)の「龍吟庵方丈」では、「付長(zhǎng)押」が室內(nèi)の意匠に積極的に使われています。 中央の室では、內(nèi)法上から3段の「付長(zhǎng)押」が設(shè)けられています。それぞれの「付長(zhǎng)押」の內(nèi)側(cè)には、図では分りにくいですが、「貫」が設(shè)けられています((「建物づくりと寸法-1????1間は6尺ではなかった」の図版には、位置を示してあります)。 「付長(zhǎng)押」は柱の外側(cè)に設(shè)けられます。そのため、かならずどこかに継目が表れますから(継目が柱の芯位置になるように継がれます)、この継目をきれいに見せる必要があります(書院造では、「付長(zhǎng)押」に、各柱ごとに「釘隠し」が飾られますが、これも継目隠しの役があったと考えられます)。 一番の問題は、木材の収縮で、継目に隙間が開いてしまうことです。 木材は一般に長(zhǎng)さ方向に縮む傾向がありますから、それを防止するために、このきわめて狹い箇所で「鎌継ぎ」を設(shè)け、2材を引張り寄せることにしたのでしょう。 この細(xì)工には、きわめて精密な加工が必要で、道具にも相當(dāng)なものが使われていたと考えられます。 小屋組の「束柱」は「貫」で固められ、その「継手」には、「鉤型付き相欠き:略鎌」が使われています。梁行、桁行の「貫」は段違いに設(shè)けられているため、柱內(nèi)で交叉することはなく、梁行、桁行とも「継手」だけで組まれています。 ここまで見てきたように、「鎌継ぎ」は、中世には、主要構(gòu)造部ではなく、化粧:見えがかりになる箇所の継手に使うのが普通になっていた、と見てよいようです。 次回もこの続きを。 忘れていました。
「貫」に使われる「鉤型付き相欠き」:「略鎌継ぎ」についての「日本建築辭彙」の解説を転載します。 「略鎌継ぎ」:りゃくかまつぎ 側(cè)面に於いて鎌の形を顕す(あらわす)こと図の如し。此継手は通貫(とおしぬき)などにも用ふるものなり。其(その)場(chǎng)合には柱の所に其継手を置くものとす?!副w(しん)鎌継」に対して此(この)名あり。[図は省略] 「眞鎌継」:しんかまつぎ 桁土臺(tái)などに用ふる継手にして其下には支承物あるものなり。上端は図の如くにして橫は突附の如くになしあり。又鎌は上より中程迄ありてそれより下には目違あるのみ。これ「しんつぎ」の一種なり。[図は省略] 「眞継」:しんつぎ 桁などの継手を柱等の如き支承物の上に置きたる場(chǎng)合に之を眞継といひ、支承物を離れて置けば之を持出継(もちだしつぎ)といふ。 [文言追加 3月1日 9.03] 先回載せた「中世の継手?仕口の様態(tài)」を少し詳しく見ることにします。 今回はア)からエ)まで。 東大寺再建でいわゆる「大仏様」が寺院建築に使われてから、100年足らずの間の建物がア)~エ)です。 資料にした「文化財(cái)建造物伝統(tǒng)技法集成」には社寺の例だけしか載っていませんから、自ずと社寺の例に限られることになります。もっとも、この時(shí)代の一般の建物は、現(xiàn)存していませんが???。 ア)~エ)で手元の資料で図面などが見つかったのはア)。 ア)の「大報(bào)恩寺本堂」は鎌倉(cāng)時(shí)代前期(初期)、1227年建立の密教寺院で、上の図?寫真のような建物です。寫真?図は「日本建築史図集」からの転載?編集。 図の左手が南です。 斷面図のように、1間四方の「內(nèi)陣」を囲む3間×3間の堂のまわりに「庇」東、北、西面の回廊)、南面に「孫庇(正面禮拝口)」を設(shè)けています。なお、3間四方の部分を「內(nèi)陣」と説明している資料もあります。 3間四方の平面だけ見れば、「浄土寺浄土堂」と同じです。 右側(cè)に、比較のために、同じく3間四方の平安時(shí)代末の同様の建物である1160年に建てられた「白水阿彌陀堂」の図を載せました。斷面図は、上が縦斷図、下が橫斷図です(大きな平面図?橫斷図は、「日本の建物づくりを支えてきた技術(shù)-11の補(bǔ)足」にあります)。 分りやすいように、これらを時(shí)代順に並べれば 「白水阿彌陀堂」1160年 約30余年 「東大寺大仏殿」1190年 「浄土寺浄土堂」1194年 「東大寺南大門」1199年 約30余年 「大報(bào)恩寺本堂」1227年 ということになります。 ア)の図は、「大報(bào)恩寺本堂」の「頭貫」と「根太」の継手です。 「頭貫」は、古代~平安期の方法ではなく、継手は「大仏様」の「鉤型付き相欠き:略鎌」を使って柱上で継いでいます。 ただ、橫腹に凹部をつくりだし、柱側(cè)につくられた凸にかみ合わせることで柱に「頭貫」を固定する手法は、古代の手法を踏襲しています(「日本の建物づくりを支えてきた技術(shù)-7の補(bǔ)足?続????頭貫の納め方の変遷」參照)。 「浄土寺浄土堂」では、その方法ではありません(「日本の建物づくりを支えてきた技術(shù)-22????継手?仕口(6)」參照)。 床部分の図面が梁行斷面図しかないのでよく分りませんが、桁行方向には「根太」と上端を揃え、梁行は「大引」上端揃えで「足固貫」を入れているように見えます。あるいは、床高が低いので、梁行は「大引」で兼ねているのかもしれません。 「大仏様」の足元まわりの固め方:「足固貫」の設(shè)け方、継手?仕口は、先に見てきました(「???の技術(shù)-19????継手?仕口(4):鉤型付きの相欠き」參照)。 「大仏様」以前の「白水阿彌陀堂」の足元まわりの固め方は、少し見にくいかもしれませんが「橫斷図」の床下で、太い材が柱を挾んで設(shè)けられ、その上に、「縦斷図」のように、太い「根太」が架けられていることが分ります。この根太も柱を挾んでいます。 つまり、「長(zhǎng)押」の手法が床下でも使われていたと考えてよいと思います。 これが、時(shí)代的な差によるのか、地域的な差によるのか、「白水阿彌陀堂」に影響を與えた平泉?「中尊寺」ではどうなっていたのか、調(diào)べてみようかと思います。 「大報(bào)恩寺」の「根太」は、「大引」上ではなく、持ち出した位置で継ぐためにこのような縦方向の「相欠き」手法をとったのだと思われます。 この図の場(chǎng)合は、どちらを先に取付けてもかまいません。しかし、端部に「目違い」(小さな凸部をつくりだし、相手の凹部に納める)を設(shè)けてありますから、継ぐ作業(yè)は橫から水平に材を動(dòng)かして継ぐことになります。作業(yè)のためのスペースが橫に必要です。 さらに、納まった上に「栓」も打ってありますから、先ず確実な継ぎ方と言えると思います。 註 鉤型:噛みあい:の部分が、この図では垂直になっていますが、 それを斜めにすると、より確実に密著させることができます。 ただ、噛みあい部分を斜めにすると上木、下木の別がでてきます。 作業(yè)は「下木」を據(jù)え、次に「上木」を落し込む順番になります。 したがって、橫に作業(yè)スペースは不要です。 「上木」は、自ずと滑り落ち、少し叩くだけで密著します。 後に「追っ掛け大栓継ぎ」などへ発展する原型と言えます。 次にイ)「円光寺本堂」とウ)如意寺阿彌陀堂」の継手?仕口。 この二つの建物の様子の分る資料が手持ちになく、紹介できません。 しばらく見かけなかった「鎌継ぎ」がこの建物では使われていますが、いずれも主な構(gòu)造部材には使っておらず、どちらかというと、「見えがかり」が気になる部分に用いているように思えます。 それは、イ)の「垂木」の仕口に表れています。 ここでは、接合部にわざわざ「垂木」を納めるように継がれる2材に「垂木」の仕口を半分ずつ刻むという面倒な仕事をしています?!复鼓尽工驋欷堡毪?、継いだ箇所が、下からは見えなくなることを考えたのでしょう。 図がないので分りませんが、継手位置は、多分、柱から持ち出した位置ではないかと思います(折をみて調(diào)べてみます)。 ウ)も化粧を意識(shí)していて、この場(chǎng)合は、「垂木」~「垂木」の1/2の位置に継目線が來ることを考えているようです。これも持ち出した位置で継いでいるものと思います。 それにしても、この「面戸板」(めんどいた:「垂木」と「垂木」の間にできる隙間をふさぐための板)の細(xì)工には恐れ入ります。たしかにこのようにすれば仕上りもきれいでしょう。しかし工事には細(xì)心の注意が必要の筈で、工事中に折れなかったのかな、と心配になります。 現(xiàn)在なら、主な構(gòu)造部材の継手にも使う「持ち出し?鎌継ぎ」は、どうやら、この時(shí)代には、「見えがかり」を気にする場(chǎng)所で使うものであって、主要構(gòu)造部には使わなかったのではないか、と考えられます。 おそらく、近?現(xiàn)代の新興建築家諸氏は、このことを知らず、「見えがかり」の化粧部分を主要構(gòu)造部であると勘違いしてしまい、平気で主要構(gòu)造部に使うようになってしまったのではないでしょうか。 エ)の「太山寺本堂」の例は、なんでこんなことをするんだろう、と思ったために載せた例です。 當(dāng)然これは、人の目につかない天井裏の仕事です。 普通ならこういう縦に分けた「相欠き」ではなく、上下に分けた「相欠き」にするはずです(「臺(tái)持継」)。 おそらく、上下に分けると薄くなって弱くなる、と考えたのでは、と思います。 それにしても、普通の「相欠き」にしなかったのはなぜなのか、分りません。 ア)の「根太」のような考え方があってもよかったのではないか、と思います。 上部に18㎜角の小さな栓が打ってありますが、これは転倒防止、開き防止のためでしょう。下は「枕木」で位置が固定されますが、上には2材を繋ぐ用意がないからです。 中世の寺院は、密教系が多いのですが、政権の所在地だけではなく、各地域につくられます。 多分、そこでは、寺院建築に詳しい工人とともに、寺院には詳しくない地著きの工人たちもかかわっていたものと思われます。いろいろな手法が見られるのもそのためではないでしょうか。 一方で、そこで技術(shù)面の交流が行なわれたと思います。「貫」の効能などは、そういう機(jī)會(huì)を通じて広まったのでしょう。 昔の人びとは、《偉い人》や「法律」に盲目的に従う、あるいは従いたがる現(xiàn)在の人たち(もちろん全部ではありませんが??)とは違い、自分たちにとっていいものはいい、という真っ當(dāng)な判斷ができた人たちだからです。そういう「自由」が保証されているとき、技術(shù)は進(jìn)展するのだと思います。[文言追加 3月1日 9.03] [図版を濃くしました:22日9.53]
図版の工事が終りましたので、ようやく「続き」に入ります。 長(zhǎng)いことかけて「浄土寺浄土堂」をはじめ、いわゆる「大仏様(だいぶつ よう)」と呼ばれる建物のつくり方を見てきました。 そこで改めて気付いたのは、「大仏様」の建物では、それ以前に使われていた「鎌継ぎ」の類が、まったく使われていないこと、そして、これは古代と変らないのですが、柱と柱の間で橫材を継ぐ、つまり持ち出したところで橫材を継ぐという仕事が一切ないことでした。 その後の時(shí)代はどうなのかと考え、「文化財(cái)建造物伝統(tǒng)技法集成」を概観して見たところ、鎌倉(cāng)時(shí)代以降の建物では、古代に主要部に使われていた「鎌継ぎ」は、散見されますが、多くは、力のさほどかからない「丸桁?母屋」や「棟木」などに限られるようです?!笡吠了聸吠撂谩工扦?、その場(chǎng)所にさえ、「鎌継ぎ」を使っていないことは、先に紹介したとおりです。 そして、鎌倉(cāng)時(shí)代以降の建物では、主要部には「大仏様」方式が使われることが多くなっているような印象を受けます。主要な橫材:梁や桁などに「鎌継ぎ」を使う現(xiàn)在とは大違いなのです。 「文化財(cái)建造物伝統(tǒng)技法集成」の中から、桃山時(shí)代までの(鎌倉(cāng)時(shí)代中期~室町時(shí)代の)建物の「継手?仕口」について、主に「鎌継ぎ」に焦點(diǎn)をあてて15例を集めてみたのが上掲の図版です。 図版は、同書から転載し、できるだけ分りやすいように編集してあります。 もちろん他にもいくつかあるのですが、これだけでも大きな変遷を見ることができるように思います。図版には、時(shí)代順にア)~ソ)の記號(hào)を付しています。 なお、これらのうち、私が実際に観ているのはきわめて僅かで、「龍吟庵方丈」「慈照寺東求堂」「大仙院本堂」だけです。 今回は、とりあえず、15例の図を載せるだけにして、次回から數(shù)例ずつ見てゆきたいと思います。 [文言追加 17.59][註記追加 18.40][文言追加 19.54] 間が空きましたが、「浄土寺浄土堂」の小屋組の基となる「梁」:「虹梁」をどのように納めているかについて紹介します。 上の寫真や以前に紹介した斷面図で分るように、「梁」は3段あります?!笀?bào)告書」では、「?jìng)?cè)の柱」と「內(nèi)陣の柱」を結(jié)んでいる一番下の「虹梁」を「大虹梁(だい こうりょう)」、二段目を「中虹梁」、三段目を「小虹梁」と呼んでいますので、ここでもその呼稱を使います。 各「虹梁」の納め方はほぼ同じ方法の繰り返しと言えます。ここでは、基本となる「大虹梁」の納め方を紹介することにします。 上掲の図版は、寫真と図が組になっています。 上の組が、「?jìng)?cè)の柱」への「大虹梁」の取付けを、「大虹梁」の「內(nèi)陣の柱」への取付きを示したのが下の組です。 註 寫真、図とも「國(guó)寶 浄土寺浄土堂修理工事報(bào)告書」からの転載です。 なお、図については、「報(bào)告書」の「図面編」と「本文編」の図を 集成編集し、加筆してあります。 寫真は組立中の寫真ですが、「大虹梁~內(nèi)陣柱」の寫真は、 「大虹梁~側(cè)柱」に使った寫真を、向きを図と同じにするため、 反転して使っています?! ?[註記追加 18.40] 「?jìng)?cè)の柱」への「大虹梁」の取付けは次のような順番になります。 「柱」上に「頭貫」を落し込んだ後、「大斗」を據(jù)えます。 「頭貫」の納め方の際に説明しましたが、「頭貫」の上端は「柱頭」より一段高くなっています(古代の事例では、普通、「柱頭」と「頭貫」は上端は同一です)。そこへ「大斗」を落し込みます。 「大斗」は上の「分解図」で示してあるような形に加工されていて、「斗」の底部の縁が「頭貫」をまたぐような恰好で納まります。 以前にも觸れましたが、古代の「斗」は、底部の「太枘(ダボ)」で脫落を防いでいますが、ここでは「太枘」の必要がありません。「頭貫」の「凹み」に落し込まれ、なおかつ「大斗」は「頭貫」の端部を押え込んだ形になり、脫落はもちろん移動(dòng)もできなくなるからです。 「大斗」が據(jù)えられると、そこへ「大虹梁」の尻(「下小根」にしぼられています)を「大斗」に載せ掛けます。 ただその段階では、梁の長(zhǎng)手方向に動(dòng)くことができ、固定されていません。 そこへ直交する「秤(はかり)肘木」を落し込みます。その部分の「仕口」は「相欠き」で、「大虹梁」の尻は「下木」、「秤肘木」は「上木」に加工されていて、落し込むと「大虹梁」の「下小根」部分と上端はそろいます。 「秤肘木」が「大斗」に刻まれた「凹み」に納まるように「大斗」の位置を調(diào)整し(ということは、、「大虹梁」の尻を動(dòng)かし、「柱頭」の位置を微調(diào)整することですが)、「秤肘木」が「大斗」に納まると、「大虹梁」も所定の位置に納まったことになるわけです。 先の「大斗」の固定法と同じように、ここでも、「秤肘木」を落し込むだけで、他に何の細(xì)工もせずに、「大虹梁」と「?jìng)?cè)の柱」は、「大斗」「秤肘木」を介して、所定の位置に確実に固定されてしまいます。 つまり、「秤肘木」は、「巻斗(まきと)」「実(さね)肘木」を経由して「母屋」を支える役割を擔(dān)うと同時(shí)に、「大虹梁」を固定する役割をも擔(dān)っていることになります。一人で二役ということです。 しかし、先に、「大虹梁」と「?jìng)?cè)の柱」を固定するわけにはゆきません。 それを先に納めたのでは、「內(nèi)陣の柱」へ「大虹梁」を取付けることができなくなるからです。 「梁」を架ける前に、「內(nèi)陣の柱」は既に立っています?!复蠛缌骸工颏悉袱帷⒏鞫韦巍负缌骸工?、「內(nèi)陣の柱」の側(cè)面に挿し込む形になります。 それゆえ、「大虹梁」の取付けは、「內(nèi)陣の柱」側(cè)から仕事を始めることになります。 「內(nèi)陣の柱」には、同じレベルで3本の「大虹梁」が取付きます?!?jìng)?cè)」へ向う直交する2本の「大虹梁」と、「隅の柱」へ向う「大虹梁」の3本です。 この3本の「大虹梁」の納め方を図解したのが、下段の寫真と図です。 「大虹梁」はいずれも端部を「下小根」にしぼってあります?!感「工尾糠证螖嗝妞未螭丹?寸×4.8寸。ただ、「下小根」の根元部分は、8寸×6.5寸と少し太くしています?!鸽馗丁工纫姢胜筏皮瑜い扦筏绀Α¥长翁げ糠证侵丐丹蚴埭堡毪瓤激à皮い毪猡韦人激铯欷蓼?。 直交する2本は、直交させるために、さらにその「下小根」部分を「下木」「上木」にして「相欠き」で交叉させます。 普通、「相欠き」では、「上」「下」同寸、つまり、交叉部を2等分しますが、ここでは「下木」側(cè)は欠き込みが3.5寸、殘りが4.5寸、「上木」側(cè)はその逆で欠き込み4.5寸、殘りは3.5寸です。 そして、「上木」側(cè)の端部では、図のように、先端の部分:「木鼻(きばな)」と言います:を別誂えにしてあります。 これはなぜか、なぜ2等分の「相欠き」にしなかったのか。なぜ「木鼻」を別誂えにするのか。 これは、隅柱に向う「大虹梁」の取付けのためだ、と考えられます。 「隅行の大虹梁」は、図のように、「胴付」の先は、きわめて薄く厚さ3寸になります。この上に「?jìng)?cè)へ向う大虹梁」が載る形になるからです。 したがって、「?jìng)?cè)へ向う大虹梁」のうち、「下木」側(cè)の「小根」の部分には、下部に「隅行の大虹梁」の先端部をまたぐ欠き込みが必要になります(斜め45度の欠き込みです)。その欠き込みの深さ寸法は2.5寸(詳細(xì)図參照)。 この欠き込みを設(shè)けると、等分の「相欠き」だと殘りが1.5寸になってしまうため(欠き込みは斜め45度ですから、正確に言うと、全面が1.5寸厚になるわけではありません。1.5寸になる部分が生じる、ということです)、「下木」側(cè)の欠き込みを0.5寸だけ小さくして3.5寸にした(殘り部分は4.5寸)と考えられます。[文言追加 17.59] そうなると「上木」側(cè)の「小根」の先端の厚さが心細(xì)い寸法になる。 それが、先端:「木鼻」を別誂えにした理由と考えられるのです。 よく見ると、別誂えの「木鼻」と「上木」側(cè)の本體も、「鉤型付相欠き」で継がれるようになっています。 整理すると、手順として、「隅行大虹梁」を柱に挿し、次に「下木」側(cè)の「平行大虹梁」を「隅行」の上に載せ掛けながら挿し、その上に載せ掛けながら「上木」側(cè)の「平行大虹梁」を挿し、その次に「木鼻」を挿す。 そして最後に「埋木(楔)」を「平行大虹梁」、「木鼻」上に打込むと、ガタガタだった3本の「大虹梁」は「內(nèi)陣柱」に固定されるのです?!嘎衲荆ㄐǎ工铯幛浦匾室鄹瞍驌?dān)っていることになります。 ただし、この「埋木(楔)」の打込みは、それぞれの「大虹梁」の「?jìng)?cè)の柱」への固定が終ってからです。 後世になると、「木鼻」を単に形を整える「化粧」のために取付ける例が増えてきますが、この「木鼻」は、そうではありません?!改颈恰工驋筏?、「埋木(楔)」を打ってはじめて「大虹梁」が柱に固定されるようになっているからです。「木鼻」もまた大事な役割を擔(dān)っていることになります。 結(jié)局のところ、「浄土寺浄土堂」は、「仕口」は「相欠き」、「継手」は「鉤型付相欠き」だけで組み上がっていることになります。 そして、どの部材も、役割を持っていて、遊んでいる材は一つもない、と言ってよいでしょう。[文言追加 19.54] しかし、これには「綿密にして緻密な計(jì)算」がなければ行ない得ません。それには、當(dāng)然ながら、どのような順番で仕事をするか、についての「計(jì)算」も含まれています。 この目配り?気配りには、そして一から十まで見通す洞察力には、ただただ感嘆するのみです。 どう考えても、突然こういう仕事はできない、かなり手慣れていたのではないか、と思うのはそのためです。 振り返ってみて、こういう無駄のない、真の意味で合理的な設(shè)計(jì)(當(dāng)然、施工までを含めての「設(shè)計(jì)」です)をしてきただろうか、と思わざるを得ません。 |
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